FC2ブログ
 
■プロフィール

淀五郎

Author:淀五郎
 
“淀五郎”は古典落語の演目。
相中にすぎなかった歌舞伎役者の澤村淀五郎は『仮名手本忠臣蔵』の判官役に抜擢されたが、四段目の切腹の場で、座頭で由良之助役の市川團蔵から連日のダメ出し。思いつめていたところ中村仲蔵に「いい所を見せようとする気持ちが強すぎる」とアドバイスを受けて、開眼。二階級特進の名題に抜擢される。六代目三遊亭圓生の十八番だった。

■最新記事
■カテゴリ
■検索フォーム

■月別アーカイブ
■FC2カウンター

■リンク
■QRコード

QR

近々、再読したい本
このところ「おくのほそ道」を読んでいることは、昨日記した。

そのあとに再読したいのもとしては、『吉田玉男文楽藝話』日本芸術文化振興会と、『人形有情 吉田玉男文楽芸談聞き書き』 岩波書店。
来年、玉女が二代目玉男を襲名するのでその前に読んでおきたい。

高木浩志『文楽の芸 (日本の芸シリーズ) 』東京書籍。
きちんと精読してみたい。 

スポンサーサイト



| | トラックバック(0) | コメント(0)
「おくのほそ道」
51B0T1KK10L_SX230_.jpg

先日、旧中山道を歩いていて急に芭蕉の「おくのほそ道」を読みたくなった。
芭蕉たちがたどった日光街道とは違うのに・・・。なぜだか自分でも理由はよくわからない。

以前買って持っていたと思い、帰宅して本棚の探しているとかなりヤケてしまっている岩波文庫が見つかった。
奥付を見ると、1984年5月の第8刷で定価400円とある。
買った当時、ざっと目を通した気がする。

通勤の往復でボチボチと読み始めた。
本文のあとについている補注や曾良旅日記、奥細道菅弧抄も都度目を通しているとなかなか進まない。
それも楽しみのひとつと思って、味わいながら読んでいくことにしよう。

| | トラックバック(0) | コメント(0)
元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』
4170J3GSKYL_SS500_.jpg

先日読み終えた元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(日本放送協会)には、非常に多くの王家や摂関家、公家、武家などの家系図が出てくる。そしてお互いに数多くの婚姻関係で結ばれているので、途中で頭の中が混乱してしまう場面もあったが、なんとか読み通すことができた。

いくつもの“目から鱗”の部分もたくさんあって、興味深かった。
また、保元物語や平治物語で何となく「もぁ~」とした部分や疑問点もある程度納得できたような気がしている。
歴史通でないので、この本に書いてあるどの部分が内容的に斬新なものなのか、異端的なものなのかはよく分からないが、源氏に関する記述で印象に残る箇所を記すことにする。

◆源氏の「共食い」は歴史上有名な事実だが、その中でも最大の悲劇ともいえる保元の乱の分裂は、なぜ発生したか。
為義は源義親の息子だが、義親は濫行の果てに隠岐に配流され、父義家死後の嘉承二年(1107)に対岸の出雲にわたって国衙を襲撃、目代を殺したあげく、翌年正月に因幡守平正盛によって討伐された。この事件をきっかけに、武士の第一人者の地位は河内源氏から伊勢平氏に移ることになった。

◆為義自身も粗暴な行動や、彼の統率した家人の無法などが相次ぎ白河院の信任を失い、官位は低迷する。同い年の平忠盛が受領として活躍し、昇殿の栄誉に浴した天承二年(1132)ごろ、為義は依然として検非違使のままとどめられ、従五位下に叙されて貴族としての特権を得る叙爵さえも許されないという屈辱に甘んじていた。
為義は康治元年(1142)ごろ、ようやく叙爵し、従五位下という「貴族」として認められる地位に就いた。

◆為義の長男義朝は官職を有さずに坂東へ下向していた。
これに対し、在京の弟義賢は東宮帯刀先生、すなわち皇太子体仁親王(近衛天皇)の警護隊長という栄職についていた。
これは、平治の乱直前、弟ながら嫡男の頼朝が朝廷に仕えていたのに対し、長男義平が特に官職もないままに相模で活動していたことと共通する現象と言える。義朝は廃嫡されて、坂東へ追いやられたとみなさざるをえない。
理由は為義が忠実に仕えるに際して、忠実を蟄居に追い込んだ白河院近臣の娘を母とする義朝が忌避されたとみるべきだろう。
ここに、河内源氏における父子・兄弟の分裂が胚胎することになる。

◆為義は忠実に伺候する武士相互の闘乱を鎮め、忠実・頼長の警護にあたるなどした甲斐あって久安二年(1146)に衛府に復帰し、通常の左衛門少尉ではなく異例の左衛門大尉に就任した。
嫡男となりながら、殺人犯をかくまうという親譲りの失策で東宮帯刀先生の地位を棒に振っていた義賢も能登の荘園の預所に補任された。

◆京を追われた義朝は、東国に数年にわたって居住する。河内源氏の武将で、長期間、南関東に居住して拠点を形成したのは彼が初めてである。一定の成功をおさめ、のちの頼朝の基盤を築いたといってもいい。
義朝は仁平三年(1153)に抜擢され、下野守に就任した。河内源氏の受領人事は義親が対馬守に就任して以来、50年ぶりで、父為義の立場を超越してしまった。義朝が父為義や弟たちと異なり、鳥羽院に接近して官位を急上昇させたと考えられる。

◆久寿元年(1154)に、為義はまたまた検非違使を解官されてしまった。
これまで自身の不品行から解官、謹慎を命ぜられることは再三に及んだが、今度は子息為朝の乱行を放置したことが原因となった。為朝は豊後国に居住し、大宰府の支配下、すなわち九州各地を荒らし回った。
翌年には四男の頼賢が春日社の訴え(忠道側の工作か)により左衛門尉を解官されてしまう。
義朝が裏切り、義賢が失策で官職を失ったことから、頼賢こそが京で為義の後継者に予定されていた人物だった。

◆保元の乱で崇徳・頼長側が夜討ちの進言を却下してされる点については、基本的に無勢であるため、大和の軍勢の到着を待つという姿勢が貫かれたのであり、夜討ちの否定は、創作された挿話と考えられる。
義朝の最大の思惑は、父との長年の確執を克服し、河内源氏の正嫡の地位を確立することであった。
後白河との関係を深めることで、官位をはじめとする政治的地位を一気に上昇させることを期待した。
これとは対照的に、最大の人数を擁しながら、清盛の行動が表に出ないのは、崇徳との関係に拘泥する側面があったためと考えられる。

◆保元・平治の乱について、鎌倉幕府成立後に作成された「愚管抄」や「平治物語」によって清盛と義朝が対等な立場で対抗していたかのような見方が根強い。
しかし、公卿目前の清盛を筆頭に四人の受領を擁する平氏一門に対し、河内源氏では義朝一人が受領の座にあるだけで、それも清盛の息子と同等の位階を有するに過ぎない。両者の経済力はもちろん、政治力の格差は歴然である。

◆平治の乱で信頼と義朝が提携したのは両者の間に深く密接な関係が存在したためである。
久寿二年(1155)に義朝の長子義平は叔父で頼長の腹心義賢を武蔵国比企郡大蔵館で攻め滅ぼしている。
この時、義平の大胆な軍事行動は問題とならず、処罰もされなかった。
これを黙認したのが武蔵守の頼長だった。陸奥国に関しても信頼と義朝は連携している。

◆保元・平治の乱を経て勝利の成果を独占したのが平清盛だった。対立する武門も消滅した。
この結果、地方反乱の鎮圧、京の治安維持、荘園の管理といった役割は、清盛統率下の平氏一門が一手に引き受けることになった。
ただし、清盛には大きな制約があった。一つは政治力の限界で、武門なだけに直接政務に介入し動かすことはなかった。
もう一つは肝心の武力における限界で、清盛の直属武力は、伊賀・伊勢の本領を中心に、海賊追討などで得た限られた地方武士に過ぎない。大規模な反乱などに対応するには、朝廷の命令で国衙などに組織された地方武士の動員を余儀なくされた。

◆この形態は、本領を中心とした武力に依存し、ごく限られた地方武士とのみ結合するという軍事貴族‐京武者‐のあり方を肥大化させたものであった。
広範な東国武士を組織しようとした義朝のほうが組織形態としては斬新であったと言える。
また競合する武家棟梁が存在しないことから、清盛は独自の武力を積極的に拡大しようとしなかった。
院・天皇の命令を利用することで地方武士を容易に動員できたのである。
王権と結合し、依存する平氏のあり方が規定されることなった。

◆治承四年(1180)、伊豆国で頼朝が挙兵するや、反乱の火の手はまたたく間に全国に広がっていった。
東国と自力救済を基盤とする、もう一つの武士政権が胚胎することになる。
「一人勝ち」した強大な権力(平氏)は、武力を有した有力貴族でも、自社権門でも、在京の武士団でもない、それとはまったく異なった権力の挑戦を受けたのである。
5年にわたる源平争乱の末、平氏政権は滅亡し、鎌倉幕府という想像もつかなかった新たな権力が東国に創出されることになる。

  【河内源氏(略)】

義家――義親――為義―――義朝――――――――義平
                  |               |
                 |――義賢――      |――朝長
                 |         |     |
                 |――頼賢   |     |――頼朝
                 |         |     |  
                 |――為朝   |     |――範頼
                 |         |     |
                  ――行家   |       ――義経
                          |
                           ――――義仲

以上、少々書きすぎた感はあるが、それだけ面白かったということ。
再読してみる価値は十分にありそうだ。
ちなみに、本書は現在絶版となっているそうだ。

| | トラックバック(0) | コメント(0)
「平治物語」を読む
2週間ほど前に「平治物語」(現代語訳)を読み終えた。
大まかに言えば、「保元物語」の続編の位置づけ。

おおよその人物の敵対関係は(単純化してしまえば)、
前半の戦い:藤原信頼・源義朝 vs 信西(藤原通憲)
後半の戦い:平清盛 vs 藤原信頼・源義朝
前者が勝者、後者が敗者である。

印象深かったところをいくつか列挙すると・・・

◆田原に逃れた信西は、郎党に自らを地中に埋めさせて自害した。しかし、信頼方に信西の遺骸は発見されて、首を切られて京都の大路を渡され獄門に晒された。~保元の乱の恨みもあったか。

◆信頼は前半の戦いに勝った後に、除目で大臣の大将職を兼務、左馬頭義朝は播磨国を賜った。義朝の嫡男悪源太義平は三浦氏に預けられていたが、都の変事で急遽上洛、除目に間に合った。信頼は義平に官位位階を授けようとしたが、義平はこれを辞退し、「軍勢を与えてください。清盛は熊野参詣にでて武装をしていないと思うので、平家を待ち伏せしたい」と言うが、信頼は気分を害し、「申していることが粗暴である。阿倍野まで出向いて馬の足を疲れさす必要はない」と却下、後に平家の逆襲に合ってしまう。~保元の乱の頼長と同じ轍を踏む?

◆信頼方が油断している間に、秘密裏に後白河上皇は仁和寺へ、二条天皇は六波羅へ御幸し、賊軍に転じてしまった。~前半の信西を討った後の構想や作戦に不備、詰めの甘さか。

◆10歳の頼朝は義朝の三男であったが、産衣の鎧と髭切りの太刀という源氏の嫡男に代々譲られてきたものを身に着けて平家との初陣で出かけた。~河内源氏の嫡流と認められていたのか。頼朝が後に棟梁になる資質をすでに持っていた。

◆義朝の愛妾である常葉(盤)が母の助命のため、3人の子(牛若など)を連れて六波羅の清盛のもとに出頭するあ。3人の子は仏門に入ること、常葉が清盛の側室になることで、3人の命は助けられた。~わが身を投げ打ってもわが子や母の命を救う生き方。

「平治物語」を読んだ後、元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(日本放送協会)を読み終わり、続いて、河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館)を読み始めた。
保元物語・平治物語の二つの物語の裏に隠された真相や史実などが分かって大変興味深い。

後日、これらの本の印象なども記述したいと考えている。

| | トラックバック(0) | コメント(0)
「保元物語」を読む
先週、「平家物語」読了後、「保元物語」を読み始めたことは既述した。
現代語訳だったので数日で読み終えてしまった。
原文は抄出されているが、ほんの一部だけ。当然のことながら味わいや読後の充実感は乏しいのは否めない。ぜひ原文で一通り読んでみたいと感じた。

主な登場人物は次の表のとおり。
 崇徳院方後白河天皇方
摂関家頼長(弟)忠通(兄)
源氏為義(父)義朝(子)
平家忠正(叔父)清盛(甥)
 他に、崇徳院方で為朝、天皇方では信西など。

印象深かった箇所を物語の順番にいくつかあげる。

◆崇徳側では、為朝が夜襲を主張するが、頼長の反対で持久戦を決定する。一方、天皇側では義朝が夜襲を進言し、信西が賛成して天皇方が先手を打つ。~逆だったらどうなっていたか?

◆為朝は義朝を射殺せたが、兄への遠慮から討たなかった。~討ち取っていたらどうなっていたか?

◆崇徳院方の敗北後、義朝は為義をかくまっていたが、勅命のとおりに父を斬ることを決意。家来の鎌田と波多野は為義を東国へ逃れさせると偽って連れ出し首を打つ。~義朝の悩み抜いた末の非情な決断。

◆さらに、義朝の弟である乙若ら4人の幼子たちまでも処刑される。乙若は身内をことごとく殺す兄・義朝の末路は碌なものにはならないことを呪いつつ処刑される。幼い子供たちが処刑されたことを知った為義の北の方も川に身を投げる。~この場面はドキドキしながら読んだ。

◆頼長の死を知った信西は遺骸を掘り起こさせる。~信西の執念深さ。

◆為義の息子のなかで唯一逃げ延びていた為朝も捕らえられる。為朝は死罪となるべきところだったが、罪を減じられて、腕の筋を切られ、弓を引けないようされたうえで伊豆に流される。~武勇を惜しまれて助命されたというが真の理由なのか。

◆崇徳院は讃岐に流されたが、写経と和歌を都の寺に奉納することを願う。しかし後白河天皇は拒んだことから、崇徳院は激怒し、後白河は未来永劫までも敵であると宣言。「大悪魔」となることを誓って舌先を噛み切り、その血でもって誓状をしたためた。~恨みは怖い。

◆その後も世の中は一向におさまらず、続く平治の乱では信西は殺され獄門になり、義朝も敗走中に長田忠致に裏切られて殺される。~義朝は処刑された乙若の言葉どおりの展開に。後白河天皇は崇徳院の願いが成就することなく乱世を生き延びた。

◆伊豆に流された為朝は、八丈島など周囲の島の代官を追い出して占領するなどしたため、為朝討伐の軍勢が差し向けられる。為朝は息子の首をはねて自身は切腹する。~流されても大暴れしていた為朝のついに果てる。

◆最後に、為朝以上の源氏はいないことを述べて、運つたなく朝敵となって果てたことを慨歎する。そして、子が親を斬り、叔父を甥が斬り、兄が弟を流罪にし、女性も身を投げる「日本の不思議」であると結んでいる。~平治の乱、源平の戦いへと戦乱は続く。

この後「平治物語」も続けて読んだ。昨日読み終えたので感想等は後日あらためて。

(参考)武田正憲訳・西沢政史監修『保元物語 現代語で読む歴史文学』(勉誠出版 2005年)、
    栃木孝惟・日下力・益田宗・久保田淳校注『保元物語平治物語承久記』新日本古典文学
    大系(岩波書店 1992年)、Wikipedia 

| | トラックバック(0) | コメント(0)
次のページ