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淀五郎

Author:淀五郎
 
“淀五郎”は古典落語の演目。
相中にすぎなかった歌舞伎役者の澤村淀五郎は『仮名手本忠臣蔵』の判官役に抜擢されたが、四段目の切腹の場で、座頭で由良之助役の市川團蔵から連日のダメ出し。思いつめていたところ中村仲蔵に「いい所を見せようとする気持ちが強すぎる」とアドバイスを受けて、開眼。二階級特進の名題に抜擢される。六代目三遊亭圓生の十八番だった。

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光明坊~広島県瀬戸田町
岡山県から山陽自動車道、しまなみ街道を通って、因島の一つ先の生口島(瀬戸田町)の光明坊を訪ねた。

境内の法然堂には法然上人流血の尊像、如念尼公、松虫、鈴虫の像が安置され、境内にも4人の墓碑がある。

如念尼は後白河法皇の息女だが、深く念仏信仰に帰依し、安住の世界をこの上皇ゆかりの生口島・光明坊に求め、はるばる松虫、鈴虫の姉妹を伴い、下って来島、念仏三昧の生涯をとげたという。

松虫、鈴虫は今出川左大臣の息女で姉は19歳、妹は17歳。
共に容色優れて麗しく、後鳥羽上皇に召され,殊のほか寵愛されたが、法然上人の弟子住蓮・安楽の六時礼賛の美声に感激し、密かに宮中を出て仏門に入り、名も妙智、妙貞と改め、朝廷の追補を逃れ如念尼の袖にすがり当地へ同行したといわれている。

その頃京都では、法然は念仏信仰を説き庶民の尊信を集めていたが、朝廷からは異端の教義を説くものとして罰せられ、松虫、鈴虫事件とも連座して流罪を命ぜらた
法然は備前・備中を経て四国讃岐へ渡る途中、この寺に居る如念尼の招きにより来島し、如念尼、松虫、鈴虫や里人に親しく仏法を説いたと伝えられてる。

・天平2年(730年):聖武天皇の勅願により行基が開基建立。
・大同2年(807年):弘法大師、光明坊に参籠。経巻などを納める。
・建永元年(1206年):松虫鈴虫、後鳥羽上皇が熊野臨幸の隙に乗じて法然従弟の住連、
           安楽に乞い剃髪入道。
・建永2年(1207年):2月法然土佐に配流。
            松虫鈴虫来院。
            後白河帝皇女、光明坊を参詣。
            法然、生口島来島、皇女の剃髪を許諾し如念尼と称す。
            法然、光明坊境内に杖を挿す。
              (光明坊パンフレット及びHPから引用)

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 法然堂。中には法然上人、如念尼公、松虫、鈴虫の像が安置されている。

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 五輪石塔婆四基。

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 五輪石塔婆四基。向かって左から法然上人、如念尼公、松虫、鈴虫の墓碑。

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 イブキビャクシン。白檀の大樹で広島県の天然記念物。 

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 法然が愛用の杖を突き立てられたものが芽生え、大樹となった。一時は境内の外へ枝葉が伸びて、農作の害となったので、その大枝を伐採することになったが一夜の中にその幹が境内内側にねじ曲がっていたと伝えられている。

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 十三重石塔婆(1294年建立)。国の重要文化財。
 (2012年3月19日訪ねる)

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